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<レポート>第19回講座「窪島誠一郎VS松本猛~水上勉といわさきちひろが生きていたら『今』をどう見るか」

2015.02.08 | カテゴリー:講座の記録

【2014年7月25日18:30~20:00 あがたの森文化会館】

対談のコーディネーターを務めた小宮山民人氏は小宮山量平氏の次男。
25年勤務した㈱理論社を退社し、ふる里から発信をと上田に拠点を移して活動されています。長野県から全国に発信している先輩の窪島誠一郎氏と松本猛氏の対談を企画し、今回の対談を含めて編集・出版を計画中です。
1回目は窪島氏のホーム上田で、「なぜ信州で美術館を始めたか」をテーマに開催され、お二人は、「ふる里に根付いた文化を創っていく。先導役」だと語りました。
今回はその2回目。松本氏のホーム松本で信州自遊塾の講座を兼ねて開催しました。

窪島誠一郎氏プロフィール

1941年生まれ。1979年、上田市に夭折画家のデッサンを展示する私設美術館「信濃デッサン館」、97年に同地に戦没画学生慰霊美術館「無言館」を設立。著書に、実父水上勉との再会を綴った『父への手紙』筑摩書房、『無言館ものがたり』講談社、『父・水上勉』『母ふたり』白水社など

対談概要

親の背景

【松本】母ちひろは1918年12月福井県生れ、東京で豊かな家庭に育つ。1974年55才で他界。今年は没後40年。ちひろの人生を別の視点から問い直すために今、文化的背景やものを創る原点を探っているところ。ちひろの母・文江は女学校の先生で上昇志向の強い人で満蒙開拓団に花嫁を送る中心的役割をしていた。ちひろを第六高女に通わせ、良妻賢母・お国のためにという当時の価値観で教育した。絵描きを目指すが親の反対で断念。満州や連隊長の官舎での静養生活の中で、世間知らずなお嬢さんは戦争の現実を知り始める。東京大空襲で松本に疎開、終戦を迎える。己の無知を恥じた母は、人生とは何か、絵描きとして何を描くべきか本気で問い続けたのだろう。空襲で死体や惨状を目の当たりにして、自分の使命を、かわいい子どもや赤ちゃんをいのちの象徴として描いていくと決めたのではないか。
【窪島】36年間別の人に育てられ、水上勉を父と知りたった37年。僕はご子息と呼ばれるのがイヤ。デキの悪い息子が3人集まって、親の視点から見たら…では初めから勝負あり。我々は、今自分の置かれている場所から見える風景を語ることが=父母を語る事ではないか。
水上勉を表す3つの言葉。①貧困:福井のおおい町で生まれ、どんぐりを食べて暮らすような貧しい家で育った。人間は貧しいところに置かれたら、人を貶めずるくなる。彼は、貧困を徹底して憎み、同時に貧しい人間がどんな気持ちで、豊かな人間を、社会を、時代を見ているかをペンで追い詰めた人だった。②うそつき:うそで泣くような特有なウソをつく人。人の虚と実(ウソとホント)を厳しく見つめ、人間を描くときのかけがえのない視点にしていた。③は女性に関わる話、自分にも関わってくるのでやめておく。

特定秘密保護法・原発・マスコミ

【松本】1925年に治安維持法ができた。最初は条項も少なく罰則もゆるかった。それが1928年には最高刑が死刑にまで厳罰化された。去年の特定秘密保護法(以下特秘法)は、まだそれほど厳しくない。1933年頃の父母の時代、都市部の豊かな人間たちは戦争のセの字も感じていなかった。ひとつの法律が通るという意味、あの時代と今、何が違い何が似ているのかを考えたい。
【窪島】1937年東京五輪の前の年で最初の原発が稼動し始めた頃、東京で飲み屋を始めた。電気料金を3ヶ月滞納した時に、集金に来たオヤジは「原発のおかげで電気が使える」と言った。そのころ新聞で「心から原発を憎む。この世にそのような存在があって良いはずはない」と水上勉は書き、僕は驚いた。それから1~2年後、新聞は来る日も来る日も原発を賞賛し始めた。金儲けに精進するスナックのマスターは、原発はすばらしいと生きていた。40年前に、まだ父と知らない水上勉は、その対極に立ちその当時から原発にちゃんと視点を射ていた。S41年発刊の『若狭日記』で激しく批判している。当時の自分はそんなことは知らずに考えもせずに生きていた。世の中には、知らないで生きている人たちと、どこかでちゃんと見ている人たちがいる。我々の仕事は、見えている人と見えない人の乖離を薄めていく、それが父母を継ぐことではないか。自分は今さら、分かっていたとは言えない。その時代をどう生きて、どう生きるべきだったのか。自分の生き様の根元の根元を70歳を過ぎてようやく考え始めている。
【松本】自分の師匠は飯沢匡氏(ちひろ美術館初代館長)。彼は「活字になったもの、新聞に書いてあることを正しいと鵜呑みにするな」と言った。新聞は、最初の頃は原発に対して懐疑的・反対の論調が多かった。それが段々崩れてきたのは、科学者を原発に招待し、安全性を説き、新聞に原発の全面広告を出す2段構えで、マスコミをコントロールしたから。同じことが戦争時代にも言えるのではないか。徐々に圧力がかかってくる。マスコミをコントロールすることが世の中を変える一番の方法。今はぎりぎりのライン、もう少し進めば負けるかもしれない。

中二階ちゅうにかい」論

【窪島】辻井喬氏(本名:堤清二 財界人・詩人)は「人間は偉い偉くないに関わらず、全員が中二階の住人である」と言った。その意味は、人はみな死ぬが、誰も自分の死期を知らない。人間の考えなど状況次第ですぐに変る、今日と明日で言うことが変ることもある。ここがぜったいという位置はない。表現者は中二階の意識を持たなければならない。人間は肩書きや社会的立場でモノを言っているように見えるが、あまねくみんな中途半端だ。その中途半端なところから発信していくことが大事だと言っている。逆説的とも取れるが、その辻井さんの言葉が好きだ。
【松本】僕は中二階というところでは生きていない。それは父母の教育がしみこんでいるからだと思う。正直、中二階という表現がピンと来ない。
【窪島】僕は、「ちひろを継ぐ、水上勉を継ぐ」に抵抗を感じる。継ぐために生きてない。自分の発言や語ることが結果的に似ている、は自然なこと。中二階はわざわざ座る場所ではなく、人間はみな中二階にいる。人間のはかない命、個の命を生きる。そこには肩書きも社会的地位もなく、痛み、悲しみ、原因不明でグッと込み上げてくるもの。そういうものに正直であっていい。いわさきちひろの芸術などはまさにそれではないか。
【松本】まじめに一生懸命生きている人。その人が、兵器工場や危険な薬品工場で、まじめに一生懸命働く。それが正しいか? わざと見ていないのか、見ようとしないのか分からないが、多少不良でだらしなくても「ここだけは譲れない」と、ちょっとガンバル生き方のほうが僕はいいような気がする。
【窪島】北海道の岩内の泊原発が見下ろせる丘に、水上勉と連名で“三行の願い”という題の石碑が建つ。表は「核を絵筆で塗りつぶせ。ペンで書き改めよ」後ろに「戦後の混乱期に離ればなれになり父58才・子34才で巡り合った父子。『飢餓海峡』の舞台であり妻のふる里にこの碑を建てる」と記してある。それに協力してくれた地元の漁民たちは泊原発から金をもらっている。表だって手伝うわけにはいかないが、身を挺して力になってくれる。
「全員 中二階」派の僕の考えは、どこかでそのやりきれなさをその人にふさわしい形で燃焼させていく生き物ではないか。保証金をもらっている漁師たち、今まで自由にアワビを取っていた海が遊泳禁止になってしまった。その時代を生きた漁師として、その碑を造ることを手伝いたいという想い。僕は人間を信じたい。高みからの視点の問いでは、中二階としての人間のアイデンティティは失われるのではないか。

担う役割・歩む道

【松本】窪島さんも僕も“戦争をさせない千人委員会”に名を連ねている。立場も性格も全く違う 僕たちだが、この部分に関しては「今なんとかしなければいけない」という点で共通している。
【窪島】無言館やデッサン館の絵には何も語らせまい。そのために自分が語らねばならない。彼らに発言させるのはノー。
【松本】無言館・デッサン館の絵、ちひろの絵、あの絵が語る言葉をどうやったら聞こえるようにするか、それが美術館のつくり手の仕事ではないか。
【窪島】語っている! が、それを僕が代弁する必要はない。あの絵の言葉を無菌の状態にしておくのが僕の仕事。絵・美術・多様な表現体は危うい場合もある。ちひろの絵は戦争から遠避けているという立ち位置を、中二階の人たちに認知させる努力が大事ではないか。直接吹き出しを付けてしまうと違うものになってしまう。自分が政治的な発言をするきっかけは、特秘法から。無言館やデッサン館に掛けている画学生たちは、市役所やダムをデッサンしただけで捕まった。特秘法が通ったら絵描きはうっかりデッサンすらできなくなってしまう。絵描きに自由に絵を描かせる、その自由は身を挺して守らなければばらない。そのために自分が立ち上がらなければならないと思った。
【松本】権力者が「~へは行かない方が、~しない方がいい」とか言い始めたらキケン。これは今言わない方がいいという空気が広がる恐れがある。
【窪島】2004年無言館の慰霊碑に赤いペンキが塗られた。当時住んでいたデッサン館の裏の自宅の前に出刃包丁が置かれ、脅迫状も届いた。「自由にモノを言わせてはいけない」その圧力をどこかで察知して守り通すために美術館をやっている。
阪本一亀さんは(川瀬書房の創設者・満州生れ)戦後のふる里の焼野原を、飢える人々を見て、「自分に何ができるだろうか…この人たちに物語を、文学を与えよう」と、東京に出て早稲田の夜学に通う。小さな出版社から、戦後数多くの直木賞・芥川賞の名文士たちを世に送り出した名編集者だった。その息子、坂本龍一は9・11のあの時マンハッタンにいた。摩天楼が崩れ落ちるのを見たあの時、血だらけの黒人が『イマジン』を歌っていた。坂本龍一は「音楽を与えよう、音楽が救う」と言って帰国した。3・11以後は、反原発に立ち上がり音楽を捨てる覚悟で活動している。この親子も、いわさきちひろも水上勉も、寄って立つ場所は違うが、何もないところから何かを提示する“心の原画”のようなものを持っていたのではないか。僕もこの年になって、自分の心の原画を求めて立とうとしているが、油断していると立てない、そこそこで生きていけてしまう。
【松本】ものを創る人は、「今発言しなければならない」という時がある。娘と今、福島の原発の新しい絵本を作っている。娘と話すとき「ちひろが生きていたらどうするか」と考える
学生時代(22才)、『戦火の中の子どもたち』という本を母といっしょに作った。ベトナム戦争の末期で、無差別爆撃が毎日のようにハノイに落ちていた時代。あの時、何をしなければならないのか…少なくともモノを語れる人間は発言しなければならないと思った。その時に、母から声を掛かられた。今思うとあの時のちひろの絵は、自分が体験した空襲で、被災した人たち子どもたちを描いている。あの時母は、言葉を発せざるを得なかった。自分は3・11の原発事故が起こった時に、今発言しなければならないと思った。自分だけでなく美術館として何ができるかと考えた。特秘法の問題を美術館は黙っていていいのか。今言わなければならない時、信州自遊塾をつくって、こういう講座をやっていることもそこに繋がっている。自分ができることの中で何が使えるのかを考えている。
【窪島】貧しいながらも自分が与えられた道を歩むしかない。自分は骨の髄まで敗戦の対価としての経済成長を甘受してきた男。72才、残りの時間で絵や文章・音楽、創造の自由を味わいたい。だけど美術館屋として自由に人が表現する世の中でなければ許せない。だからといって、今飾られている絵描きたちにマイクを向けて「この絵はこう語っている、戦争反対だと言っている」という手のかざし方はイヤ。絵は小さなささやき声だから。大きな声が遠くまで聞こえると思いがちだが、ささやき声が大きく伝わる場合もある。僕は「この絵はささやいていますよ」と大きな声で叫びたい。
【松本】僕は師匠の飯沢さんから、~でなければならないは無い。マスコミ・新聞・活字になっていることが正しい訳じゃない。「自分がどう考えるか」をきちんと持たなければダメだということを学んだ。
【窪島】22才でちひろと本を出し飯沢さんの愛弟子…、あなたは恵まれている。自分には何もなかった、先生なんかいなかった。あなたは選ばれた人、僕はあなたに嫉妬するよ。
【松本】(苦笑)反論したいことは山ほどありますが、残念ながら時間が来てしまいました。

※この後トラットリア松本画廊で交流会を行い、ワイワイガヤガヤ、ケンケンガクガクと盛り上がりました。

参加者の感想

お二人の対談は大変心に響くものがありました。
私は数十年前、窪島誠一郎氏のお父上である水上勉氏の講演をお聞きしました。今回の講座で、窪島さんを正面からお見受けしましたところ、お父上に顔立ちが本当によく似ていて、紛れもなく父子だと実感いたしました。窪島氏が、父を語る第一歩が貧困とおっしゃっていましたが、まさに水上氏も「貧困を語らなければわたしの人生の出発点はない」と言っていたことがいまでも心に残っています。苦難を乗り越え、日本を代表する作家の一人になり、当時、『越前竹人形』という小説が世に出て評判になっていました。無言館や信濃デッサン館も、今までは魂の叫びと向き合って見てきましたが、今回の対談を聴いて、また違った目で見ることができそうです。
いわさきちひろ氏に関しては、画集を手に取ったり、身近に絵葉書、便箋もあったり、なんとなく親しみを感じ、幸福感を覚えます。お二人の生い立ちの違いを感じました。
この対談が本になるとのことですが、よい本ができますことを願っています。

水野谷 恵さん(塩尻市)

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