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<レポート>第25回講座「縄文の精神性から学ぼう」その1

2016.01.04 | カテゴリー:講座の記録

2015年10月11日(日) その1 ヒスイの里 糸魚川編

約15000年~2500年前に、自然と共生しながら持続可能な社会を作り、平和に暮らしていた縄文人。狩猟採集を基盤に1万年以上独自の社会文化を継続し、人間同士が殺し合った遺物は発見されていません。彼らは未開の原始人ではなく、高い文化と精神性を持った日本の先住民です。縄文時代の文化・精神性が注目され始め、3・11以後は特に“縄文”というワードを見聞きするようになりました。 縄文を理解することで、“これからの生き方”のヒントに繋がればと、縄文について関心の高い、諏訪自然塾のみなさんと合同のバスツアーを企画しました。2回シリーズの内、今回は第1回として糸魚川を訪れました。

小雨交じりの中、茅野を朝7時に出発した諏訪自然塾の皆さんと、安曇野スイス村で合流。前日まで続いた秋晴れが、返って恨めしいようなお天気で当日の朝を迎えましたが、合わせて23名の参加者同士で、自己紹介やおしゃべりをしている間に、晴れ間がのぞき始めました。

「小滝川ヒスイ峡」は、明神山(約3億年前サンゴ礁が隆起した)の縁を流れる姫川の支流の渓谷で、天然記念物「小滝川硬玉」と呼ばれるヒスイの産地です。 雨上がりのひんやりした空気の中、450mの大岩壁と、標高1188.5mの明神山の山頂まで一望でき、紅葉が彩りを添える景色の中、渓谷を見下ろす道を展望台まで歩きました。大岩壁がV字型に渓谷からそそり立つ雄大な景色には、歓声が上がりました。川底には何百トンもあると思われる大きな石がゴロゴロしていて、その一つ一つの中にヒスイが眠っているのかと思うと不思議な気持ちがしました。世界の古代文明を見ても、ヒスイは特別な宝石として扱われています。日本の遺跡から見つかったヒスイはすべて糸魚川産とのこと。縄文人たちはこの景色をどんな気持ちで眺めていたのでしょうか、彼らにとって“聖地”のような場所だったのでは…と想像力が膨らみました。

「フォッサマグナミュージアム」では、最初に学習室でスクリーンを見ながら、ヒスイには硬玉と軟玉があるが宝石と呼ばれるのは硬玉だけであることや、蛇紋岩はヒスイの運搬役であること、マグマとの化学反応で作られる過程など、鉱物としてのヒスイのことや、フォッサマグナについても、学芸員からお話を伺いました。熱心な質問が多く、予定時間をかなりオーバーしてしまい、その後の展示物の見学が急ぎ足になってしまったのは残念でした。見学の中で特に印象的だったのは、恐竜時代~新生代の大地の物語を、大きなスクリーンの映像で観たことでした。地殻変動で日本列島が誕生し、フォッサマグナと日本海が形成されていくプロセスが分かりやすく、計ることのできないほど遥かに長い時間の流れの先端に生きている我々も、大きな流れの一部なのだと、感覚として理解できたように感じました。

「長者が原遺跡」は、世界最古のヒスイ文化の地と言われ、ヒスイの生産、加工、交易の拠点でした。竹のような中空のものに研磨剤となる石や砂を使って、硬度7という堅いヒスイに穴をあけていたこと。加工品ばかりでなく原石も交易されていたことも分かっているそうです。ヒスイという貴重な資源を持つ長者が原の縄文人たちですが、他のムラと変わらぬ暮らしをしていたようで、物質的に特別な見返りを求めていなかったことが伺えます。「長期的・精神的な部分に、見返りを考えていたという見方もある」との見解も伺いました。 “カッパ型土偶”は、「尖石の“仮面の女神”が国宝にならなければこれがなっていた」と少し残念そうに話されました。本物は、東京国立博物館収蔵庫に保管され、展示品はレプリカ。展示の機会が少ないので知名度は低いが、専門家は皆知っているそうです。土偶の中でも特に見慣れぬ不思議なデザインに、地域による個性・感性の違いを感じました。 『古事記』にも描かれている、弥生時代の“ヌナカワヒメ伝説”は、出雲勢力がヒスイの勾玉を作る当地への圧力ではなかったか。や、古墳時代中期(5世紀)頃に、ヒスイの勾玉つくりは姿を消し、その後ヒスイの産出すら忘れ去られてしまったのは、ヤマト王朝の中央集権化と仏教の推進のための策ではなかったか。など、縄文時代以降も、日本の歴史の中に、ヒスイが深く関わっていることを知りました。 当初は屋外の遺跡の見学も予定していましたが、再び降りだした雨で外の見学は中止。学芸員の地島さんのていねいな説明を受けながら、ゆっくり考古館を見学しました。

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